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雑記。(201907)

先週の3連休、急遽群馬に帰省した。祖母が倒れた、と言う知らせが入ったからだ。実は今年の3月にも、倒れたという連絡が入っていて、そのときは大腸癌が見つかり親戚で騒ぎになった。幸いにも早い段階で発見→摘出できたのでこれは命に別状はなかった。(今後、転移する可能性が0%ではないと言うのももちろん聞かされていた。)だから今回の知らせをもらったときは正直ダメかもしれない、と心の中で思った。しかし、いざ集中治療病棟で会った祖母は普通に意思疎通が撮れる体調で、なんだったらリハビリの算数ドリルが難しいだの、研修医の男の人がかっこいいだの、一般病棟に早く移りたいだの、拍子抜けしてしまうほどいつもの実家と変わらない風景があった。だけどやっぱり、脳への負担と不安の表れか、歩く姿が弱々しくなっていた。病室の窓から玉村の花火がちょうどよく見えた。あんなに小さくて、あんなに綺麗だったっけ、玉村の花火。

会いたい人と会えるうちに会っておく、というのはやっぱり大切なことだ。


我が家は、相変わらず四者四様、自由気ままに生活している。それでも、僕が帰省すると最低一度は外食に出かける。その時も毎回「焼肉がいい」「野菜の気分」「いっちょう(居酒屋)にしよう」「腹減ってないから回転寿司で」なんてな具合に意見にまとまりがない。結局、最近は家から車で10分のところにある小さな古民家の居抜きの居酒屋に落ち着くことが多い。お酒の種類が豊富で食べ物も安くて美味しい。妹が昔食べられなかったアスパラの串揚げを注文していて、なんだかほっこりした。

今回は僕と妹の小学校に昔からあった「校内郵便局」の話になった。

僕(ら)の母校には変な風習が多い。月に一度全校生徒が花を一輪持ち寄って学校の好きなところに飾ることができる「花一輪運動」、卒業式でしか歌うことが許されていない卒業生が在校生に対して送る「校歌4番」など。それからこの「校内郵便局」である。

校内郵便局は、社会科の授業で郵便局の制度を勉強した3年生が中心となって学校を舞台に簡易的な郵便局を設立、期間中は校内に設置されたポストを通していろんな人と郵便物のやりとりができる、という季節のイベントだ。

僕は今回家族の話題に上がるまでなんときれいさっぱりこのイベントの存在を忘れていた。だが、妹ははっきり覚えていた。

「あんたから手紙もらったからね。」

「え、そうだっけ。」

「そうだよ、小学2年生のとき。小学6年の兄から手紙で、一言だけ書かれた手紙。」

「なんて書いてたの?」

「『もっと兄を敬いなさい。』って。」

「...すべってるね。」

「もちろん小学2年生だったから読めなくて、お母さんに聞いたの。なんて読むかって。」

「うん。」

「そしたら『いつか読めるようになるから、そしたら"そう"してあげな』って。」

「うん。」

「いまだに読めないから、"そう"はできてないんだわ。」

「なるほどな、どおりで。納得。」

僕はこういう話を覚えてない。妹はこう言う話をちゃんと覚えている。ずるい、くやしい。

母は酔うと僕は温かくて妹は冷たい人だ、とよくいう。しかし、僕は(最近は)そうは思わない。妹の方がよっぽど人情に溢れている人だと思う。人情とはつまり過去の積み重ねの結果であり、その記憶なのだと思う。誰かとの小さな他愛のないエピソードが積み重なって、人は出来上がっていく。僕は、記憶力がない。テストで使える暗記力はあるが、人として大切な記憶力がない。積み重ねてきたものも、いつしか当たり前に感じてしまって、そこにあった無数のエピソードを思い出せない。つまり感謝がない。信頼することも、信頼されることも下手くそなのである。一方の妹は、暗記力はないが、記憶力があるタイプの人間で、彼女自身は淡白で呆気カランとした性格だが周りの友人に慕われている。会うたびによく話すが、面白いエピソードには事欠かない。

「兄妹じゃなかったら3年間一度も目も合わさないで卒業するよね、うちら。」

という考えには双方賛同する。


今週末は、会社の友人らと真鶴のペンションでボードゲーム合宿をした。ひょんなことから急遽、会社の人とは面識もない僕の彼女も参加した。体調も万全ではないのに、笑顔で参加してくれて、なんなら僕よりみんなと打ち解けていて、つくづくいい彼女である。

昼からノンストップで続いたどんちゃん騒ぎも日付を跨ぐころには、さすがに疲れが出てきて(全部ペヤング超激辛MAXが悪い)、ついついいつものクセでSNSを開いてしまって、それはそれは非常に後悔した。

あぁ、とかく世の中は混沌としていて、今日も今日とて強い正義が弱い正義を打ち砕き、大手を振って無表情のLIKEを集めている。自分の人生には何ら関係ないはずの人の小さな嘘を被害者ヅラして騒いでみたり、他方、個性的な見解と言う体裁の平凡なコメントで会ったこともない誰かを擁護して、誰もが自分と自分の理想のギャップをインターネットのフィルターを通して埋めようとしている。 「お前らが"自分こそが第一発見者!!"と言わんばかりの勢いで持ち上げに持ち上げてきたインターネット面白ものまね女子大生だろ、温かい目で見守ってやれよ。」 くらいまで書いたところでTOKYO HIGHWAYは僕の手番が回ってきて、見事に震えた右手が次の手番の人の車を転落させてしまい、ペナルティ。着実にポイントを稼いでいく彼女に「弱いねぇ〜」と言われて、つい舌打ちをしてしまう自分にまた嫌気。酒がすすむ。

最近改めて思う。僕は僕の発言が基本的に嫌いだ。と言うか信じられない。自分の意思だと思って書いた文章(発した言葉)も、よくよく分解してみればそれはSNSで聞きかじったワード、最近読んだ新書に出てきた文言等々よる、それはそれはよくできたコラージュ作品にしか見えなくなってくる。

マーシーよろしく「俺は俺の死を死にたい」んだ。

そこを間違えてはいけない。

本当に一歩手前のところで「今、本当にお前の言いたいことはそれか?」と思いとどまってツイートボタンを押し止まって下書き行きにすることが以前よりさらに増えた。

まさにこれだと思う。(というのもまた人様のツイートを引用していると言うのは笑いどころです。)
評価はしない、してもしょうがない。

僕は我儘で傲慢でuncontrollableなものが、非常に苦手だ。それでもちょっと世間に期待しているからなおさらタチが悪い。

だから、せめてもの抵抗手段として今自分が作れるものを作るんだ。精神衛生のために。将来の食いっぱぐれのための努力なんて、立派なものではない。


さっきから「まつりごと」の生放送を見ている。根本さんが珍しく緊張した様子でテレビカメラのインタビューに答えている。 「投票用紙なんて捨てたわ」と言いながらカラオケでモーニング娘。の 『ザ ピース!』を笑顔で歌う面白法人なんかよりよっぽど面白いよな、なんて思いながら食い入るように見ている。

みんながつい目を背けること、つい悪いと思うもの、つまらないと思うもの、ダサいと思うものと正面から対峙する。めっちゃ面白いじゃん。

2年前に漆田さんに「面白法人行きますわ。」って話をしたとき「たいがにはあそこは真面目すぎるよ。」と言われたのを思い出す。
果たして真面目すぎるかどうかは何ともいえないが、本当に面白いのはさて鎌倉と仙台、今どっちにいる自分だろう?とは最近ちょっと思う。
自分で自分の思うところがあって、そのために自分のテリトリーで背伸びをせずに地道に物事を続けられている人はすごい、そうありたい。


繰り返しになるが「俺は俺の死を死にたい」んだ。できたら好きに死なせてくれ。
葬式までになんとか妹に『敬』ってもらえるところまで成長したい。
今の数少ない希望はそれだけだ。

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