まずはじめに、この本は群論の本ではない。無論、代数学の本でもない。
アメリカの科学雑誌のコラムニストが25年間書きつづけた数多の文章から選びぬかれたエッセイ選集である。
私が独りでやっているこのホビー数学の活動には、今までこれと言ってルールは設けてなかったが、それでも一応、学習の参考になるような小難しい専門書や動画コンテンツを中心に取り上げてきた。
したがって今回のようなエッセイ集は対象から外すべきかとも考えたのだが、第1章を読み終えるころにはその気持ちはすっかり切り替わっていた。
まずわかりやすい指標として伝えたいのは、このエッセイ集の巻末には参考文献が16頁に渡って箇条書されている。(専門用語や学者の名前も8頁にわたって索引にまとまっている。)
要するにガチなのだ。
著者のブライアン・ヘイズ氏は、もともと年少の頃から物理学者か海洋学者にあこがれるような好奇心旺盛な子供で、学生のときたまたま単位の問題で文系に進まざるを得なくなり、新卒?で新聞社を経て、そこから書評などを書くライターとして頭角を現し、そして科学専門誌でエッセイを掲載するようになったというユニークな経歴を持つ。
彼が執筆活動と並行して自然科学、中でも数学の分野で自学自習を進めていった結果、各界の学者からクオリティの高いコラムとして称賛されるようになった。(ときには的はずれな計算や論理展開もしてしまうが、有識者からのアドバイスに真摯に向き合う姿勢は尊敬に値する。)
全部で12のエッセイが掲載されているのだが、それぞれで扱う分野は異なる。
せっかくなので索引から本書で重要となるキーワードをいくつかピックアップすると、対称3進数、NP完全、遺伝暗号、カントール集合、巡回群、隠れた変数理論、等価演算子、擬似乱数、分水界、(戦争の)マグニチュード、ファレイ数列、など。
この本が他のいわゆる理数系のうんちく本と一線を画すのは、ただただ興味深い歴史的事実や学際エピソードを紹介するだけでなく、著者自ら問題と向き合い、ときにアルゴリズムを考えたり、図書館へうん十年前の非専門誌を探しに行ったり、手計算した結果をグラフにしたりと、文章の隅々に「科学遊び」に熱中する著者の熱量を感じとることができる。
その貪欲さのおかげで遺伝暗号や分水嶺といった自分に余り馴染みないテーマの文章でも、ぐいぐいと最後まで読み切ることができた。
12の章ごとに逐一、感想をツイートをしていたのでそれを掲載する。
1.ベッドルームで群論を
今日の進捗
— 眠れる数学猫bot (@pn0t_) 2022年5月2日
「ベッドルームで群論を」P.1-P.27
第1章。表題作。欧米ではマットレスの凹みを均等化するため定期的に裏返したり回転させするらしいが、そこを起点にマットレスを<対象>として動かすと言う<演算>を考える。言葉は出てこないが、これはまさに二面体群の考え方だ。
2.資源としての「無作為」
P.28-48
— 眠れる数学猫bot (@pn0t_) 2022年5月2日
完全な無作為は存在しない(神はサイコロを振らない)のか。少なくとも純粋なソフトウェアだけでは完全な乱数は生み出せない。自然の力を借りてランダムに見せることはできるが、背景にある物理に決定論的な変数を見つけてしまったら?生活の至る部分で働くランダムには限界が来るのだろうか。
3.金を追って
P.49-75
— 眠れる数学猫bot (@pn0t_) 2022年5月2日
気体分子運動論に基づいて経済モデルを組み立てることで富める者と貧する者のバランスを予測するという話。金融工学みたいなのはあまり興味ないが昔から考えられてきたんだなーって。正直な商人しかいない世界より強盗がいる世界の方が富の均衡が保たれるという理論的な予測はおもしろい。
4.遺伝暗号をひねり出す
P.76-104
— 眠れる数学猫bot (@pn0t_) 2022年5月2日
二重螺旋構造発見後の遺伝子の研究の歴史。ここは事前知識がだいぶ必要だと思う。特にDNA配列の仕組みとか高校化学忘れたマンにはきつい。ただ、人間が当時さまざま予想していた遺伝暗号より自然が作った遺伝暗号のほうが非効率でいい加減な仕組みだったというのはトリビア的で良い。
5.死を招く仲違いに関する統計
P.105-125
— 眠れる数学猫bot (@pn0t_) 2022年5月2日
戦争に対する統計的アプローチ。リチャードソンの研究を扱う。1~数人が死んだ争いの死者数が2つの世界大戦での死者数に次いで多いという意外な事実。あらゆるパラメータと戦争との相関性を調べたが宗教が多少関係する程度で確度の優れたモデルは作れてない。(それでも研究は続いている。)
6.大陸を分ける
P.127-147
— 眠れる数学猫bot (@pn0t_) 2022年5月2日
アメリカ大陸の分水嶺を求めるアルゴリズムを著者がさまざまなアイデアを持ち出して検証しては失敗するという章。具体的な内容より、仮説を立てていざ実験しそして反例を見つける一連のプロセスの醍醐味を味わえるかがエンジニアには大切という深い教訓。
7.歯車の歯について
P.149-169
— 眠れる数学猫bot (@pn0t_) 2022年5月6日
歯車の設計と数論の関係。時計の設計には大小さまざまな数の比率が必要とされ、場合によってはより誤差の小さい近似比みたいなものが重要となる。そのなかでシュテルン・ブコロ木は偉大な発明であった。不思議な形で時計職人が数論の進歩に貢献している。キーワード「ファレイ数列」
8.一番簡単な難問
P.171-192
— 眠れる数学猫bot (@pn0t_) 2022年5月6日
NP完全について。集合の分割アルゴリズムという古典的なNP問題をとりあげ、入力された前提条件によりその難易度が物理学で言う相転移みたく変化を起こす理由を、物理学者が反強磁性体のスピン配列になぞらえて解明したという学際的研究エピソード。
9.名前をつける
P.193-214
— 眠れる数学猫bot (@pn0t_) 2022年5月6日
命名の限界について。この章はあまり数学らしいトピックではない。ticker symbolや社会保障番号、それからサラブレッドの名付け等、個体識別が必要なケースには固有のルールや特徴で他と被ったりエラーを起こさぬように工夫がされていたり、あるいは全然考えられていなかったりという話。
10.第三の基数
P.215-241
— 眠れる数学猫bot (@pn0t_) 2022年5月7日
普段目にする2,10進数よりも3進数のほうが実は経済的コストの面では効率が良いというのは理系であれば聞いたことのある話だと思うが、それがなぜなのか。実は自然対数の底eに最も近い整数だから。高速化や集積化の観点から3進数を採用する機械は稀であるが実績はある。
11.アイデンティティーの危機
P.243-253
— 眠れる数学猫bot (@pn0t_) 2022年5月7日
無理数を機械で扱うときどうしても近似を持ち出さざるを得ない。そうした場合、等式"="の信頼性は脅かされる。参照渡しや値渡しと言った身近な例でもわかるように、「同じ」だから大丈夫ということへのあいまいさに私たちは身を委ねて生活している。
12.長く使える時計
P.265-290
— 眠れる数学猫bot (@pn0t_) 2022年5月7日
最終章。2000年問題を経て著者が"長く"使われることを計算に入れた装置としてフランスのストラスブール大聖堂にある巨大な天文時計を紹介。計算でこの時計が1世紀に1秒以下の誤差しか出さないことを示す。他に、400年に一度の閏年やイースターといった複雑な暦も正しく計算するらしい。