買ったばかりのPCがビービーと音を立てながら桃色の小宇宙をレンダリングしている、ただそれをじっと見ている。台所の棚の奥にひっそりと影を潜めていたマサラ・チャイを見つけて「まさにこんなときのためにとっておいたのだ」とどこからともなく声がした。この星の隅っこで、白いモンスターの描かれた黄色いマグカップにトボトボとお湯を注ぐ。
幸せについて考えてみた、なんていう書き出しだとポルノグラフィティかよと突っ込まれそうだが、正確に言えば自分が漠然と思っていた幸せの一つの必要条件みたいなものがどうやら言語化できた気がしたので、それでなんとなく文章を書くことにした。果たしてうまくかけるだろうか、わからない。大したことを書くつもりはない。それは説明が難しいというよりはその逆、平凡でおはようの挨拶よりも起伏のない話になってしまいそうで心配だ。結論からかけばそれはとどのつまり「幸せとはコントローラブルである」ということだ。コントロールがエイブル。例えば僕は人混みが嫌いだ。果たして、そもそも人混みが好きな人類が果たしているのかははなはだ疑問だが、とにかく昔から大人数がごった返しているような空間が嫌いだった。人混みを好くという人はみたことがないが、嫌う理由は千差万別だ。今のような夏であれば皮脂や汗の、あるいは獣のような香水の、”匂い”がだめという人もいるだろう。その気持ちも十二分に理解できる。(が、書いている本人が汗っかきなのでここは人を責めづらい。)僕の場合は制御不能、アンコントローラブルな存在に囲まれている、というのがどうも駄目なのだ。あの人もこの人もどこから来てなんの意思を持ってどこへ向かうのか。別段ポエチックな事を言いたいわけではない。まさにその字の通りのことを考えずにはいられないのだ。この事に気がついたのは友人に「毎日違うおいしいものを食べる人生より毎日決まったものを食べる人生のほうが幸せな人もたしかにいる」という話をされたときだった。僕は昔から食に対するこだわりも少ない少年だった。ただそういう人間なのかと思っていたが、いやむしろ毎日決まった食生活を送れるほうが”コントローラブル”という意味で安心できる、という見方もできそうだ。エンジニアという職業についたのも、振り返ってみると、可能な限りその仕組みと、トラブルの原因・対策を、上っ面だけでない部分で(つまりなるべく低いレイヤーで)理解していたいという思いがあったからだ。(そういえば最近やたら「学ぶのは騙されないためだ」といった内容の女王の教室のワンシーンがSNSで流れてくる。ああいうのをSNSで拡散するような連中とだけはつるみたくないものだ。)いわゆるクライアント側の道ではなくバックエンドの道をファーストキャリアとして選んだのもだいたいそんな理由だ。個人の素質でいえば僕は割と営業や企画が向いているのだと思う。そういう自覚はたしかにあるが、性格の根の部分は身の回りをコントローラブルにしておきたいという欲求が強いのだと思う。件の選挙で身の回りが政治の話ばかりになったとき、投票こそしたがいまいちその話題にのめり込めない自分がいたのも政治という巨大なシステムに自分の手で制御できるものが一つとして見当たらないから、と言ってみると少し自分で納得がいく。(甘えてはいけないのだけれど。)スポーツ観戦も同じような理由でいまいちハマれない。「天気の子」を見て感銘を受けたのは、(急にネタバレになるが)穂高くん自身が”東京(=世界)の幸せ”ではなく陽菜ちゃん(=個人)の幸せ”を最後の最後に迷いもなく選ぶという展開だ。僕らの生活は今後凄まじいスピードでこの方向で向かっていくんだと、少なくともクリエイター(制作陣)たちは思っているということに驚きと、少しの悲しみを感じた。一昔前の「大人になる」というのはつまり「この世間様からしたら自分はとってもちっぽけで、コントロールなんて無理、という元も子もない事実を受け入れる」ことだった。それは決して絶望ではなく希望の縮減という範囲のものだった。それが変わってきた、もしくはそれを変えていこうというメッセージ。「全体をこの手中に収めるのは無理だよ。でも自分とその半径5mの小宇宙をコントロールできると信じたい、その努力は惜しんじゃいけない。」日本で一番影響力のあるバンドRADWIMPSが「愛」を君と僕の間で仕留めた。それは令和という時代の幕明けには残酷なほどぴったりだ。あわわ、壮大な話になってしまったが、レンダリングが終わるまでもうしばらくかかりそうだ。もうしばらくお付き合いを。ローソンセレクトの味付け卵がうまい。去年の秋にこいつと出会って、それからはもう見つければ買ってしまう。ゆで卵をコンビニで買うという行為は一人暮らしの男にとってはタブーの中のタブー、なんとも罪な行為であるのは承知の上。だが、このゆで卵は、このゆで卵だけはどうか許してほしい。伯方の塩で芯まで味付けされた半熟と完熟のそのちょうど間、具合の良いゆで卵。そういえば初めて一人暮らしをした家で、ゆで卵を作ろうとして沸騰したお湯に卵をぶちこんで、その後うたた寝をしてしまったせいで空焚きになってしまった後の焦げた卵を見て「俺はゆで卵もろくに作れないのにどうして一人暮らしをしているのか」と情けなくなってそのまま泣いたのを、ここで思い出した。ああ、文章なんて書かなければよかった。寒くなってきたので部屋のエアコンを止めたら、途端にPCの発熱のせいで部屋が蒸し暑くなってきて、困っている。レンダリング作業はどうやら峠を超えたらしい。しかし、まだ箱根は遠そうだ。そういえば、今週は体調が本当に良くなかった。環境が変わったことで心がすり減っている、のかと最初は思っていたが、どうやらそうではないようだ。むしろ自分よりさらに速い速度で環境が変わっている人、そしてその人が着実に前に進んでいることを感じ取り、そのせいで相対速度的に自分はゆっくり進んでいるように見えてしまって、一人だれに咎められるわけでもなく眠れぬ夜が続いてしまった。漫画が大好きという後輩と社食で話したのが先週の金曜日だった。ほとんど初対面だったが、漫画は偉大なもので(なにより彼女がしっかりとした人で)話はそこそこに盛り上がった。漫画が好きで同人誌も書いているという。好きなことから始まって、作ることに帰着している、そのことが他人ながら嬉しかった。そうだよ、そう、僕が今の会社にいるのはもっとこういう話が聞きたかったからだ、とそのとき思った。安部礼司のヘビーリスナーだったというのも嬉しかった。彼女に借りたヤマシタトモコの漫画を夜通し読みふけって、朝寝る前に「そうだ」と思って自分の家の本棚を整理するついでに彼女に貸す漫画を選んだ。今の家にはだいたい100冊近い漫画が数えたらあったのだが、タイトルを見るとどれもとっくに彼女は読んでいそうなものばかりで、別に恥ずかしいことではないのに、負けた気分になった。なんとか5,6冊ピックアップを終えて、すっかり買ってから存在を忘れていた「恋のツキ」の最終巻を読んだ。あの漫画は駄目だ。あの漫画に出てくる駄目な男たちが全部自分に重なって見えてくる。丸く収まってハッピーエンドを迎えたにもかかわらず、どこか晴れない気持ちのまま週末が過ぎていった。気がつけばBlenderのチュートリアルもめぼしいものはだいたいやってしまった。これ以上やるとなるといよいよキャラクターのモデリングやらアニメーションの世界になるが(むしろそここそがBlenderの醍醐味なのだが)そこには今の所興味はない。自分の伸ばしたい部分には手が出せるようになった。ツールを身につけるというのは、その過程はアンコントローラブルだが、ある程度経験を積み重ねていくと”アン”が消えてコントローラブルな世界が広がっている。これもまた一つの幸せなんだと、思う。
エアコンをつけ直した。文章はここまで。